Profile🚹

Toshi(ニックネーム): 男 1973年降臨 千葉県出身

地元医療機器商社へ入社し32歳で退職。
2年後アメリカへ渡米し滞在9年。その間日本への輸入販売・日系レストランの寿司シェフ・ファーマーズマーケットでのケータリング・中古車販売・留学生向けレンタカー・米系リムジン社のリモドライバー等を行ってきました。
カリフォルニアの高く青い空と太平洋に沈むオレンジに輝く夕日を毎日見ながら、完全に日本社会に不適合者となった2017年の7月、アメリカ生活に終止符を打ち43歳で帰国。その後福岡に移住し、現在は某カフェチェーンで働いています。
過去の人生を振り返ると紆余曲折色々な出来事がありましたが、あの時こうしていればなんて後悔全くなし。今はシングルライフを楽しみながら趣味に没頭し気楽に暮らしています。

毎日を楽しく笑顔で暮らしていれば人生良い方へ進むさ。
“That’s going to be alright!!”

Toshiの人生の履歴書

就職

医療系商社では営業部に配属される。
上司に恵まれ売上は常に上位をキープ🎊。
取り扱い商品が医療の新しい時代を創っていた時期。製品は売れるがその分忙しく、某有名なCM「24時間働けますか~♪」がTVで繰り返し流され当たり前で普通だった。
朝8時過ぎ出社して夜0時過ぎ退社が日常、下手したら夜中の1~2時までパソコン叩いてその後同僚とデニーズorラーメン食べて帰り、風呂と仮眠とってまた出社。(この頃は何時に何食べても太らなかったぁ。。。)
土日もどっちかは出勤して残務処理・資料作成・翌週の準備という過酷な日々。

27歳で結婚

3つ年下の彼女と結婚。新婚旅行は初めての海外旅行モルディブ。
英語もTipの文化も知らず、部屋までスーツケース運んでくれたボーイにTip渡さず怒させて帰らせてしまった。💦
水上コテージに3泊したけど波酔いするなんてどのパンフレットにも載ってない。。。
共働きで2人共毎日疲れ果て、時間が合えば夜は外食。結婚してからも楽しい時間は続いた。
隣で寝ている奥さんを寝顔を見ながら、1997年映画史を塗り変えた「タイタニック」の影響を受け
「この人の為なら死ねる。ジャックがローズを思う気持ちに勝るとも劣らない」
と本気で思っていた。。。
毎日が楽しく、幸せ過ぎる結婚生活。
注:ジャック→レオナルド・ディカプリオ ローズ→ケイト・ウィンスレット

32歳で離婚

奥さんの友人が妊娠ラッシュ。自分達には子供が出来ずお互い気まずい時期。でも検査するまでの気持ちにはなれず(どちらかに原因があった場合相手を攻めてしまいそうで)今を楽しもうと話合うが、きっとどこか気持ちが崩れてしまっていた。。。
お互いにそれぞれが友人と旅行や呑みに行く時間が増え、いつしか奥さんに医者の彼氏出来る。
その時、奥さんの言った「彼とは浮気じゃなく本気なの」の言葉に何も云えず、玉砕。。。
日々🏠ではビールをシコタマ呑み、週末は親友と呑みに出かけヤケ酒を浴びる程吞むが一向に酔えない。
人は悲しみのどん底にいると酒では酔えない事を知る。

そして離婚。

32歳同年退職

退職し朝~深夜まで仕事する環境から解放され、夕方犬の散歩に近隣を1時間程歩く事でどこか人間として生きれている、と少し幸せな気持ちになった。しかしながら離婚者という世間からの偏見に怯えながら、彼女への未練も強く自身の傷心は癒えず。(この頃、確か日本の離婚率は10%以下?だったと思う。。。)
退社した年の冬から事前に決めていたスキーインストラクターとして雪山に籠る。 (当初1年の予定だったが、思った程自身の技術向上が認められず、もう1年他のスクールにて延長する事にした)

34歳で単身渡米

雪山から下山後、数か月~半年の短期留学の予定で単身アメリカ西海岸・カリフォルニアへ渡米。
今振り返ると知り合いなど全く居ない異国の地へ何の知識無く、良く行けたと本当に思う。(友人は1億くれるといわれても自分は絶対に行かない、恐ろしくて行けない。と言っていた事を思い出した) 
無知とは恐ろしい。。。
渡米初日、滞在先だった🏠に到着後ホストマザーが出迎えてくれたが話が全く理解出来ず。
その後Toshiがあまりに英語が分からな過ぎで途中からホストマザーがキレ出し、2週間程経過したある朝5時に居たたまれず家出した。(34歳にもなって、大の大人が家でってどうなの・・・?)
今その🏠の前を通りがかる事が有れば生卵をドアに投げつけ、毎晩酒で酔っ払ってはリビングで大声で電話し、Toshi用の食糧に期限切れのサラダを出していた事、用意されていたコーヒーが100円ショップの物にも関わらず高価だと嘘をつかれていた事へ文句を言ってやりたい。。。

アメリカ在住中

英語が全く分からないが、カリフォルニアの青空・人々のフランクさ・一目を気にせず自由に生きる幸せに魅了され、なかなか帰国出来ず語学学校へ通学しながら学校で知り合った友人と輸入販売を始める。1ドル86円、アメリカからの輸入販売が最高に潤い、週3回は⛳&ラウンド後居酒屋に集合し🍺していた時代。(1ラウンド3千円位で安い!)  この頃からもう日本では活は出来ないなぁと悟る。。。
その他にも色々な仕事を(手伝いで)してみたが、一番自分にしっくり来たのが日本食レストランでの寿司シェフ。目の前に座るお客さんが美味しいと言って食べてくれる笑顔に癒され、感謝される事に満足感を感じられた。きっとサービス業が自分に合っているのだと実感する事が出来た貴重な経験だった。

39歳再婚

留学前に色々と準備を支えてくれた女の子と再婚。(彼女の姉が留学経験者で留学のイロハや留学先についての情報を教えてもらった。そして、その頃Toshiの親友と彼女を付き合わせ様と模索していたが実らず。笑 いつしかその彼女とToshiが付き合う事になった。。。)
渡米したての頃、近くのモールにある公衆電話で彼女に📞し話をしていたのが懐かしい。その頃はアメリカと言えど(ほんの数年前)、未だネットが一般的に普及する前だったという事が今では信じられない。。。同時期日本ではスタバでさえネット提供の無い時代。
渡米して数年経ち、なかなか帰国しないToshiに彼女が痺れ切らし渡米を決断 → そして結婚 → アメリカで2人生活スタート。(彼女はアメリカ嫌いの為、1年の半分は日本暮らし) 
その分アメリカへ来ている間はシカゴ・ニューヨーク・パームスプリングス・ロサンゼルスetcへ旅行&買い物へ飛び回り、ベガスは年2回は行っていた。(Toshiがギャンブル好きという事もあったが、ベガスはエンターテイメント&夢の国・個人的にももっとも思い出深い街になっている)

42歳第一子誕生

仕事中、定期健診で病院に行っていた奥さんから📞が有り、検査状況の結果急遽入院する事になったと連絡有。レストランでのランチ終了後だったので病院へ向かう&翌日出産。
アメリカでは珍しい自然分娩。
初産にも関わらず声を荒げる事もなく、途中看護師から麻酔する?麻酔する?と何度も聞かれたが頑なに断り自然分娩した奥さん、とても強い人で尊敬に値した。。。

子供はアメリカで生まれた為、アメリカ国籍保有。← 超うらやまし過ぎる。
これは奥さんが子供に渡した最初で最大のプレゼントだと思う。

43歳本帰国

言葉の壁、法的な観点からも自分達の環境でアメリカでの子育ては難しく本帰国を決める。
帰国後奥さんに地の利のあった福岡に移住し再就職するも、やはり日本の社会?会社?は生きずらい。

43~46歳

カフェ業態の会社へ就職後、直ぐに新店舗立ち上げに関わる。
全てが初めての経験、睡眠時間も2~3時間で勤務中に休憩も取れず1年で10kg体重落ちる。
私生活では子供が保育園へ入園し、奥さんがパートを始める。

が、ここで想定外の出来事。奥さんパート先で同じ年の彼と運命出会い?多分・・・、が訪れる。

47歳年始

コロナで店舗休業 ← Toshi専業主夫となる。
奥さんは同時期、夜中から彼の待つ仕事へ行ってしまう。→ この頃から🏠での奥さんの振る舞いがおかしい。→ 子供から「彼と奥さんと3人で公園に遊びに行って来たよ!」と聞かされる。(Toshiは彼と面識有) 無邪気に話す子供に如何なる罪もない。→ 奥さんへ聞く → 奥さんn曰く、彼は奥さんの思う理想の父親像なのだと。。。人生2度目の玉砕

47歳6月、2度目の離婚

話し合いの結果、奥さんから彼と一緒になりたい言われる。
後日夜ご飯後、子供を食卓テーブルに呼んで
「パパとママ喧嘩してもう一緒に暮らせないんだ。パパは出て行くからこれからママの言うことちゃんと聞いてママの事も願いね。」
って言ったら、ニヤニヤしていた笑顔が消え寂しい表情になりながら
「もう5歳になったんだよ。大丈夫だよっ。」
って作られた笑みを浮かべ話した顔が今でも忘れられない。
5歳の子供の中にパパへの沢山の思いやりと気遣いがあったのだと思う。

離婚が決まり🏠出当日、普段通り子供の登園&奥さんの出勤をマンションのベランダから手を振って見送り後、全ての荷物を🚙に載せ6帖一間のアパートへお引っ越し。
その日はやる事が多すぎて悲しくならなかったが数日し部屋が片付いた後、子供がくれた日々の平凡な思い出と小さな優しさを思い出すと、胸が締め付けられて苦しく、寂しく、悲しくなった。。。😢

48歳秋

寂しさも落ち着き一人でいる生活にも慣れ、日々生活の中に幸せを感じられる様になった。

同じ境遇の人に共感を持ってもらいたく、ブログをスタート。

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